ぐうたら野菜生活。

世界のどこかで生きています。

朝帰りの自分の姿を鏡で見るのが好きだった

 

はじめまして。上海と申します。

毎日鼻が高くなることを祈りながら眠りにつきます。

 

朝帰りの自分の姿を鏡で見るのが好きだった

 

こう思いはじめたのは、いつごろからだったでしょうか。

おそらく一昨年の冬頃だったと思います。はっきりとそう感じるまでの予兆はありました。私は朝帰りをしたとき、いつも最初に鏡の前に立っていたと思います。

さっきの別れ際、私はどんな顔をしていたんだろう、どのくらい化粧は剥がれていたんだろう、などなど、朝の光で何かしら見えすぎていなかっただろうかと心配だったのです。

そしてある時、私きれいじゃん、と思ったのです。ほとんど崩れてしまった化粧、疲れ切った目、ぼさぼさの髪。でも、ふしぎと綺麗に思えました。

朝帰りをするときは、家に帰ることに対する安堵感がいつもより多くありました。だから、いつもより優しい、良い顔をしていたのかもしれません。なにしろ私は自分の家が大好きだったのです。私しか暮らせない家。私の物しか置いていない家。私だけが踊っていい家。私だけが歌っていい家。

そんな大好きな家を離れて誰かと過ごしている時間は、とても刺激的な時間でした。よく知らない場所で、よくわからない人と過ごすのはとてもストレスなことです。でも、私はそのような時間をとても欲しました。なぜだかはよく分かりません。人肌は好きなようです。誰かと話すことも好きなようでした。

さて、私きれいじゃん、と思った朝の前夜、私は友達に散々お酒を飲まされていました。断片的にしか記憶はありません。最初は楽しかったような気もするのですが、そこに女は私しかいなかったので、断片的に思い出すこともあまり良いものではなく、むしろ忘れていいことのように思います。

目を覚ますと、みんな寝ていたのでタクシーを呼んで帰りました。散々な目にあったと思いましたが、そういう場所に行った私がバカだったんだと、仲いい人が助けてくれてもよかったんじゃないかと、でもこれが男の人の世界なのかなと、様々な反省をしながら帰りました。

そして家に到着し、鏡の前に立ちました。本当に、何よりも先に、私きれいじゃん、と思いました。不思議ですね。きれいなはずないのに。きっと頭がおかしいんでしょうね。

でも、今でもその時の自分の顔を思い出せます。きれいだと思います。こういう審美眼に私はよく惑わせられていました。本当は、気持ちよく風に吹かれる素朴な花のようになりたいのに、踏みつけられた雑草に小さく咲いている花のようにもなりたいと思う自分もいるのです。その方が美しいとさえ感じるのです。

だから、あの朝の私は、まさに踏みつけられた花のようだったから、美しく見えたのだと思います。その朝から、はっきりと、朝帰りの自分の姿を見るのが好きになったのだと思います。

ちなみに今は、私を傷つけるものから逃げ、気持ちのいい風に吹かれながら生きております。あの頃の自分を否定しようとは思いませんが、あの頃の自分のように傷ついている花が落ちていたら助けてあげられたりするのだろうかと考えたりもするのです。

 

上海