ぐうたら野菜生活。

世界のどこかで生きています。

なぜ私はおじさんの愛を受け止められなかったのだろう

 

はじめまして。上海と申します。

実際に上海に行ったことはありません。

 

なぜ私はおじさんの愛を受け止められなかったのだろう

 

本当になんて偉そうな、ひどいことを、言おうとしているのだろうか、と自分自身を責めたくなるような気持ちなのですが、下の記事を書いたときに、ふと思ったのです。

 

yunachang13.hatenadiary.jp

 

どうして、あのおじさんの事を好きになれなかったのだろうかと。

色々考え、そして書きたいと思いました。(私は思っていることを、このように公にすることで、脳みその中を明るくしている節があると最近気づきました。)

おじさんは、よく、俺のようにもっと人との関係を大事にしなさいと私に説教をしました。おじさんは色々なコミュニティに顔を出し、他の女性の方々から連絡先を聞かれたり、年下の男性の方々に尊敬されたりしていることを、嬉しそうに話していました。俺のようにすれば、君も俺のように沢山の人に好かれるようになるんだぞ、と教えていただきました。

確かに、おじさんは、とても明るい人ですし、優しい人です。自分より若い人たちにフレンドリーに接する姿勢は見習いたいのです。年下の人の輪に入っていくことは多少の勇気がいると思いますから。でも、その優しさを、周りの若者たちもまた、うまく利用しているんだなと、話を聞きながら思うのでした。

それに気付いているのか、気付いていないのかは分かりませんが、おじさんに説教をされる度に、「かわいそうな人だな」と思うようになっていきました。それから、私に与える言葉や様々な品(例のヘアオイルなど。高値の物は頂いておりません。)は、好かれるための「餌のようなもの」と思うようになりました。おじさんは私に優しくしてくれていましたが、それが「哀れな女に施しをしている図」のようになっていることに、悦を感じているようにも思えました。しかし、そう思えたからといって、実際おじさんが、どのような気持ちであったかは知る由もありません。私が勝手にそう受け取っているだけです。私はひどい奴なのです。

きっと、おじさんは私の中に爪痕を残そうとしすぎたのだと思います。そんなに一人になることが怖いのでしょうか。人間への執着心がつよいなと思いました。その時点で、私とおじさんは根本的に真反対の人間でありました。

私も人間に興味がないわけでありません。いつも不思議だなと思っています。どうしてこのように考え、どうしてこのような行動をとるのだろうかと、疑問に思うことが沢山あります。

このように、「どうして」と思うのは、自分と周りの人々の考えが100%同じにはならないからです。同様に、私の中での、「本当に優しい人の像」は、おじさんの考える「本当に優しい人の像」と異なるのです。

ですから、私がおじさんの事を「優しいですね。」と、褒めるとき、「(おじさんの物差しで測ってみると)優しいですね。」という、隠れている部分があったのだと思います。思い返せば私はこういう感じで物を言うところがあるので、よく、「本心でそう言ってる?」と言われることが多かったのも、今更に納得です。物差しは相手に合わせているから、言っていることにウソはついてないようだけど、自分には大嘘をついている場合が多かったということです。

おじさんと話すときは、特にこの癖が発動されていたと思います。気心の知れた友達には、思ったことを偉そうにストレートに伝えられるので、おじさんのことは嫌いではないけれど、心を開くことはできないと、あきらめていたのだと思います。

なんでこんなにも愛を与えてもらっているのに、おじさんの事を好きになれないんだろうと、自分でも理解できないまま、おじさんと会わなくなってから数か月経ち、ここでやっと分かった気がします。

何だか、やっと、おじさんの呪縛から解き放たれたような気持ちです。世間が良く言う、「いい人だけど好きになれない」というのは、相手から押し付けられる「いい人像」に惑わされているということもあるではないのかと思います。いい人なのに、どうして私は無下にしてしまったのだろうかと、罪悪感に苛まれることも、もうなくていいんだろう。きっと。

でも、やっぱり少し可哀想だから、元気で達者に暮らしてください。もう会うことは絶対にないけれど。

 

上海